夜中に、「ニッポンのジレンマ2017」と言う番組を、惰性で見てしまった。
なんでも、論客は、1975年以降生まれの人々。
あ・・・・・・
↑1975年以前生まれの人(^^;
個人的に、一番好きだったのは、石山洸さん。
良いこと言わはるわあと思ったのは、福原志保さん。
薄っぺらいなあ意外とと思ったのは、古市さん、大澤さん。
まあ、人間は、経験の生き物なので、自分の経験があって初めて、踏み込んで理解できるから、まあまだ若い古市さんが理解できなくても、しゃーないわな、と思った。
↑上から目線のオバサン(^^;
石山さんが、最後の方に出されたお話。
人工知能の発展の先にはこういう物があるという。
認知症の介護の方法で、「ユマニチュード」というものがあるらしい。
あ、NHKでやってたのを何となくちらっと見た。スキンシップしてたあれね。
現場では、多かれ少なかれ、実践してはると思う。
これが本当に有効か、人工知能の研究者と、医者と、ケアメソッドの開発者で、実験をしてたしかめたそうだ。
介護のケアの現場を、画像で撮り、場合によっては脳波のデータも取った。
そのデータを集めてビッグデータ化し、分析すると、めちゃめちゃ有効であることが実証されたというのだ。
しかも、実践中のケアを画像で撮って、人工知能で分析すると、もうちょっとこういう風にやった方が良いよと、赤ペンを入れてくれると。
これは、素晴らしい!!!
それまでは「ユマニチュード」と言う方法が、「レトリック」であったものが「サイエンス」になった瞬間である、と。
人工知能に何が分かる!
と言うてしまえばそうなんですが。
その人工知能を使って、分析したのは人間ですし。
その分析を、実践と比較するための道具として、人工知能を使っているに過ぎない訳で。
判断しているのは、人工知能ではなくて、分析方法を考案した人ということもできる。
この例が、とっても私の今の興味の方向性と合っていたとも言える。
実は、一か月ほど前に、父の介護抵抗のせいで、入院設備のある病院で、入院お断りって拒否されてしまいまして。
思うところは多々ある。
医療の現場で、本来の医療行為以前のところで、手間のかかる人に手を煩わされていては、現場が疲弊して、助けられる人も助けられなくなる。
そういう話があることは、うすうす分かる。
ああ、優等生的な答え、それって。
ただ、優等生でない私に言わせると。
「ふざけるな、アホンダラ!」
ですわ。
というのは。
検査の結果を聞きに私が診察室に呼ばれたとき、父は一人で待合室に待たされた。
私が話を終えて診察室から出て来たら、待合室に父がいなくて、一瞬テンパり、おろおろと見回していると。
診察室に呼ばれるまで話していた父の知り合いだという人が、点滴室に行ったと教えて下さり。
走って行ったら、ナース2人が父を車いすからベッドに移そうとしているところで。
あっと思ったら、咬んでいた。
こっちに言わせたら、物みたいに扱うなよな、です。
そう言えるようになるまで、モヤモヤと悩んでしまった。
健常者に対しても、けっこう効率的に、悪く言えば、物みたいに扱うことって多い。
でも、健常者は、特に大阪のおばちゃんキャラ実践者としては、血管細いネタで、採血している人をちょっと笑わせたりもできる。物やないしね、私。
でも、それは、健常者に対しては、大した問題ではない。
ただ、認知症の人にとっては、不安や恐怖を感じさせる扱いであるということを踏まえた配慮ができないというのは、余裕がないのか?能力がないのか?
まあ、その程度なのが、今の医療の現場の平均的現状だということです。
生徒さんに聞いた話では、そういう配慮をしてくれる病院もあるらしく。
診察室で話を聞く際にも、本人から、診察室に入った家族の姿が見えるようにしてくれたり、意識が進んでいる病院も、ごく一部あるそうだ。
で、それでも、モヤモヤは残った。
だってさ。
今回も、めっちゃ良い感じのK医院のK先生が紹介状を書いてくださった上での検査だった訳で。
で、このトラブルでしょ。
こっちも、知識がなさ過ぎた。
そんなことなら、もっと配慮をしてくれる病院に紹介状を書いてもらった。
もしくは、配慮のない病院に行くのなら、複数の健常者で付き添った。
そういう、医療現場の現状というか常識というかを、私たちは知らない。
少なくとも、一般人との間には、もうちょっと擦り合わせというか、コミュニケーションが必要だと思うよ。
だって、こんなつまらないこと、繰り返されたら、どっちにとっても、不利益でしかないでしょ。
これからは、認知症患者、増えるよ。
もっと言えば、医療現場の、最低のスキルは上げておいた方が、医療者サイドの自衛にもなると思うんだ。
そんな気持ちが残っていた。
そこで、この人工知能の赤ペン話だ。
やるわ、人工知能。
より高度な分析のツールとして、人工知能を使える。
そう、人工知能というけど、端っこをかじった私としては、AIは「知能」やないねん。
福原志保さんも言うてはったけど、AIは「機能」なんです。
そのツールが、人間のコミュニケーションの齟齬を補完するものとして使えるっちゅ~ことですよ。
そしたら、あの時のナースの行為に、赤ペンで「はいアウト!」って、言うてくれるってことでしょ。
で、人間サイドが、そのことに謙虚な態度で向き合えば、人間サイドのスキルが上がる。
ちゃんと学べて、うまく立ち回れるようになる。
このことが、明るい未来でなくて、なんなんや?
古市さんの言葉に、ふ~んと思った。
論客として名高い古市さんが、高齢化問題を、マイナスとしてしか捉えられないのは、それこそ、核家族化によって世代間の「分断」が起こっていて、高齢者がそばにいないってことで。
高齢社の問題は、単なるマイナスではなくて。
人生の一部で。
そこには人間の日常がちゃんとあるってことを、実体験として知らないってことで。
知らなかったら、対策を論じることもできない。
なぜなら、基本データを持たないからだ。
さらに福原志保さんが、そのあとちらっと言った言葉に、とんぼ玉作家としての、私のこの頃のモヤモヤの部分にビビッ!と触れる、すごく素晴らしい話があった。
それに対しても、古市さんや大澤さんの反応は、小さ目だった。
ちっ。
実感ないのね。
それは、彼らが、若いから経験がないのか、論理の世界の人だから物作りの話が畑違いだからか。
私がこんなに感動したのに、反応小さ!
残念。
まあ、分からんことは分からんってことやね。
福原志保さんの話で感動した話は、また、いずれ、覚えていれば書くかもしれません。
石山洸さん、福原志保さん、このお二人の、お話を聞けただけでも、めっちゃ有意義だったと思った次第です。
あ、石山さんが、さらに言うてはったのは。
この分析によって、「ユマニチュード」が、「レトリック(方法論?)」から「サイエンス(科学)」になったということだって。
で、こういう分析を、これからは、経済学にどう取り入れて行くか?って話で。
そうすることで、経済学もレトリックからサイエンスになるって。
素晴らしい!
素晴らしい!
ぱちぱち!
これが、明るい未来でなくてなんだろう?
科学と呼べる範囲が、シンプルな理論の部分から、複雑系へと広がってきた。
なんだか、世の中、お勉強すると、おもしろいことが、いっぱい増えて来たんやね。